西大路通は平安京の野寺小路にほぼ重なるという。野寺小路は平安京の中心を南北に貫く朱雀大路から西に七つ目の通りである。が、その西半分はそもそも水捌けが悪く人の住まざる土地として長らく田畑や野っぱらであり続け、豊臣秀吉はこの通りのすぐ東を流れ…

東山蓮華王院、三十三間堂の南大門道を挟んだ東側に法住寺と養源院がある。車も通る二階のない平構えの南大門の片側に立つ築地塀は太閤塀と呼ばれている。これは道を北に上(あが)って七条通を越えた京都国立博物館の先にある方広寺の塀の名残りで、豊臣秀…

花筏(はないかだ)水に遅れて曲りけり ながさく清江。琵琶湖疏水の水は東からやって来て蹴上で分かれ、一方は南禅寺の中空を横切り、哲学の道が沿う流れとなって白川に注ぎ、もう一方は動物園、平安神宮一の鳥居の前を真っ直ぐ、ひと折れふた折れして鴨川に…

嵐山の方から渡月橋を渡り長辻通を北に下って、JR嵯峨野線の線路を越え、そのまま突き当たるところに嵯峨清凉寺がある。その元(もとい)は『源氏物語』の人物光源氏のモデルともいわれている嵯峨天皇皇子、左大臣源融(みなもとのとおる)の別業棲霞観(…

「武蔵国の御家人、熊谷の次郎直実(なおざね)は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善(前世でおこなった良い行い、現世で良い果報を受けるという)のうちにもよをしけるにや、幕下将軍(源頼…

御室仁和寺の東の築地に沿って緩く上る道の右は仁和寺の駐車場で、その上、仁和寺の東門の向かいに小さな門を構える蓮華寺がある。京都市が立てた駒札を写せば、「平安時代の天喜五年(1057)に後冷泉天皇の勅願により藤原康基が創建した。はじめ広沢池…

冬に鶯の「あの啼き声」を聞くことはない。鶯がどこかに行ってしまって聞かないのではなく、冬には「あの声」を出さないから聞かないのである。チャッ、チャッというのが冬の鶯の鳴く声である。俳句はこの声を「あの啼き声」とは別の、笹鳴という季語にした…

平成七年(1995)一月十七日に起きた阪神淡路大震災のその刻に便所に入っていた俳人永田耕衣は、神戸須磨の二階家が倒壊したにもかかわらずその狭い個室の中で命拾いをした。九十五歳だった耕衣は住まいを失って寝屋川の老人ホームに入り、このような句…

グーグルマップは北野天満宮の一の鳥居から真っ直ぐ南に伸びる御前通の一筋東の狭い通りを相合図子通と記しているが、昭文社の地図(2014年刊)では下ノ森通(しものもりどおり)となっている。下ノ森通という名はいまの上京警察署の辺りの門前一帯が下…

南で梅の花が咲く梅小路公園の北の隅にスケートリンクがある。大きさは縦五十メートル横十四メートルとある、四方をフェンスで囲っただけの野外のリンクである。平日の寒風の吹く午後に誰も滑っている者がいないのは、まだ開く時刻の二時になっていないから…

猫の子にかがみて諭(さと)す京言葉 中戸川朝人。猫は年中子を産むが、俳句では「猫の子」は春の季語ということになっている。わざわざ「京言葉」と詠む作者は、恐らく京都の者ではなく、京都に生まれ育った者にとっては普段自分が使っている言葉以外はすべ…

結核に罹り昭和二十二年(1947)に三十三歳で亡くなる流行作家織田作之助がその前の年、京都日日新聞に「それでも私は行く」という奇妙な題の小説を連載している。その書き出しはこうである。「先斗町と書いて、ぽんと町と読むことは、京都に遊んだ人な…

「節分の翌日が立春で、大槪二月四日の年と五日の年と、二年づつ續けて來る。未だ中々寒いが、禪寺等では立春大吉の札が門に貼られどこやらに春が兆す。陰暦によつた昔は立春卽ち新年で、元日のことを今朝の春・今日の春などといつたものであるが、今ではさ…

紫野大徳寺の塔頭高桐院は細川忠興(ただおき)三斎が父藤孝幽斎の菩提寺として建てたもので、忠興の歯を埋めた墓には正室だったガラシャも祀っている。この同じ墓所に興津(おきつ)弥五右衛門という男の墓がある。京都町奉行与力神沢杜口(とこう)が書き…

一月十四日の雪は、渡月橋の欄干にも岸に寄る屋形船の屋根の上にも嵐山や小倉山の木々の枝にも降り積もり、その降りしきるさ中、景色は雪の思うままに従いみるみる姿を変えたのであるが、雲が南の方から割れ出すと降る雪の劣勢は太陽に晒され、やがて静かに…

桜の見頃も終わる四月半ばの今宮神社のやすらい祭は、緋色の幕をぐるりに垂らした風流傘を先頭に赤と黒の長いつけ毛と緋色の長い羽織を着た少年らが股を広げた腰構えで跳ねるように舞うのが独特であるが、この風流傘を思わせる「人気笠」が、大和大路通を挟…

昨年の末に出たなかにし礼の短篇小説『血の歌』(毎日新聞出版)に、平成三十年(2018)四月に孤独死で世を去った森田童子が生れ出た時の様子が書かれている。なかにし礼が産婆を迎えに行っている間に、後に森田童子と名乗るなかにし礼の兄の次女、小説…

その日のちょうど正午近く西陣の外れにいると、西から東から消防車のサイレンが上がり、自転車の足を止めて聞けばそれはどちらもこちらに近づいて来る響きである。ほどなく南の方角からも聞こえて来る。五辻通(いつつじどおり)に何人か人が出ていて、通り…

九条東寺の講堂と食堂(じきどう)の間の空き地に、夜叉神堂という紅殻格子の二つの小堂が建っている。二つ建っているのは、夜叉に男と女があるからである。この日は弘法市の二十一日で、十二月は終(しま)弘法と呼ばれ境内中に露店が立ち、夜叉神堂の回り…

鹿ヶ谷(ししがだに)法然院の茅葺門の左手に、飛び石をその前に並べた茶庭の中門の様な小さな門があり、普段は閉ざされていて通りすがりの者がその門を潜ることは出来ないが、この門の内にあるのは金毛院という名の寺である。あでやかな紅葉もいまは落葉と…

枯芝にうしろ手ついて何も見ず 角川春樹。京都府立植物園には広い芝地があり、いまはすっかり枯れていて、踏んで歩めば靴底からその独特の感触と匂いが伝わって来る。枯芝のあまり広くてかなしけれ 波多野爽波。このような感慨は、たとえば観客席から見てい…

北野天満宮の二十五日は、菅原道真の月命日で天神市が立ち、普段はタクシーが屯(たむろ)している一の鳥居から楼門前の駐車場、東の御前通を築地に沿って上七軒を過ぎた本殿の裏まで野菜、漬物、七味、餅、菓子、海産物、植木、骨董、陶器、古着、古道具、…

鴨川を東に渡った広い五条通の一筋南の坂道は渋谷通(しぶたにどおり)と記され、清水寺の子安塔が建つ清閑寺山と豊臣秀吉の眠る阿弥陀ヶ峰の間を山科へ抜ければ渋谷街道となるのであるが、かつては渋谷越あるいは苦集滅道(路)(くずめじ)とも呼ばれてい…

「上がれますよ。」と、白髪頭で普段着に突っ掛けを履いている年の入った女が云った。女はリュックサックを背負ったマスク姿の中年の女と立ち話をしていた。いまどの辺りにいるのか見当はついているものの、通った覚えのない道に入って角を曲がると、向こう…

いちめんの黄色は背髙泡立草 今井杏太郎。御室仁和寺の門前はいま、このような様子である。あるいは、忘れゐし空地黄となす泡立草 山口波津女。三千九百平方メートルの空地に出来るはずだったガソリンスタンドとコンビニエンスストアは幻に終わり、三階建て…

北嵯峨広沢池(ひろさわのいけ)の北の縁の底の尖った茶碗を伏せたような朝原山は、その麓にかつて遍照寺があったため遍照寺山とも呼ばれているが、池の西の稲刈りが終わって曼殊沙華が萎(しお)れている田圃道で十月二日の晴れた真昼に耳にした、町中(ま…

JR嵯峨野線丹波口駅は、平成三十一年(2019)に梅小路京都西駅が間に出来るまで京都駅から一つ目の駅で、改札を通って北の口から出れば目の前が広い五条通で、駅の高架線路を挟んだ西と東の両側は青果水産物を扱う京都市中央卸売市場である。丹波口駅に…

その奥に下鴨神社が控えている糺(ただす)の森の一角にある河合神社の塀の内に、復元した鴨長明の方丈の庵がある。広さが約四畳半一間の小屋である。鴨長明は下鴨神社正禰宜惣官(ねぎそうかん)だった鴨長継の次男で、七歳で従五位下の身分になったのであ…

落柿舎の建つところは、嵯峨小倉山緋明神町であるが、三度泊まったことのある松尾芭蕉が「落柿舎の記」という一文で「洛の何某去来が別墅(べっしょ)は下嵯峨の藪の中にして、嵐山のふもと大堰川の流に近し。此地閑寂の便りありて、心すむべき處なり。彼去…

蟬の鳴き声が聞こえなくなると、芙蓉の花が目につくようになる。法輪寺の山門を入ってすぐの庭先で芙蓉が七つ八つ咲きはじめていた。この法輪寺は嵐山の法輪寺ではなく、下立売通御前西入ルのだるま寺である。だるま寺という名の謂(いわ)れは、境内に八千…